ルーシー・モード・モンゴメリ

ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery 1874年11月30日生)
 [カナダ・小説家]



 プリンス・エドワード島クリフトン生まれ。モンゴメリが1歳9ヶ月のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った。しかし、一部の叔母たちを除いて、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、モンゴメリの欠点をあげつらう親族のことは嫌っていた。

 1890年の15歳の頃には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州のプリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった。

 1893年。キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学した。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得した。1895年から1896年にかけてノバスコシア州の州都ハリファックスのダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。

 島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長も務めていたため、死後その仕事をモンゴメリが引き継いだ。1901年と1902年の短期間、ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として勤め、1902年に祖母の世話をするため、再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと1906年に婚約。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。ユーアン・マクドナルドとは祖母が亡くなった直後、モンゴメリ36歳の1911年7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、オンタリオ州リースクデールに移り住んだ。

 モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書いた。1919年に最も親しかった従妹のフレドリーカ・キャンベル・マクファーレンを病気で失くす。この喪失感は生涯続いた。1926年に一家はノーヴァル(現在のオンタリオ州ハルトンヒルズ)に移住した。

 1935年にフランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けた。同年、一家はトロントへ移った。モンゴメリは1942年にトロントで亡くなった。『アンの想い出の日々』を書き上げた直後であったという。死因は「冠状動脈血栓症」とされてきたが、『赤毛のアン』原作誕生百周年の年に、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーにより、本当の死因は「うつ病による薬物の過剰摂取が原因の自殺」と公表された。

 ユーアンは学生時代に患ったうつ病が結婚後8年目に再発、生涯快癒する事はなかった。モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けたが、晩年は家庭内外の問題で心労が重なり、モンゴメリ自身も神経を病んだという。二人の間には3人の男子があった。

 1942年4月24日死去(享年67)