オーディ・マーフィ

オーディ・レオン・マーフィ(Audie Leon Murphy 1924年6月20日生)
 [アメリカ・軍人/俳優]



 テキサス州ハント郡キングストン生まれ。第二次世界大戦中にはアメリカ陸軍の軍人として多数の勲章を受章し、1945年7月16日のLIFE誌で「最多受章兵士」として表紙を飾ったことにより有名になった。戦後は映画俳優に転じ、20年以上にわたり44本の映画に出演した。またカントリー・ミュージックの作曲家としても成功を収めている。西部戦線における17ヶ月の勤務の間、彼はアメリカにおける最高級軍事勲章である名誉勲章を受章したほか、フランスやベルギーを始めとした諸外国からのものも含めて32つの勲章等を受章している。また1955年に公開された自伝的映画『地獄の戦線』は、1949年に出版された同名の著書に基づいている。

 戦後、マーフィは鬱病や不眠症、そして戦争経験による悪夢に苛まれていた。彼は眠る時、必ず枕の下に銃弾を込めた拳銃を忍ばせていたという。最初の妻であるワンダ・ヘンドリクスはこれらの症状からしばしばマーフィと衝突し、拳銃を突きつけられたこともあった。マーフィは常に退役軍人らの代弁者たる立場を取っていた。その為、自分を含めた多くの退役軍人を苦しめていながら当時公に語られる事は少なかった戦闘ストレス反応および戦闘に基づくPTSDに関する議論を引き起こした。さらにマーフィは退役軍人を代表し、戦闘が軍人の精神に及ぼす影響の研究や治療の為の医療保護をアメリカ政府に求めていた。

 マーフィは俳優として、またグレート・ウェスタン・アームズ社の協同経営者の1人として莫大な利益を得ていたが、派手なギャンブル癖があった為に人生のほとんどの期間を貧しく暮らした。ある友人によれば、マーフィーはギャンブルを通じて300万ドルを失ったという。1970年7月には、カリフォルニア州バーバンクにて犬の訓練士に対する殺意を含む暴行に関する起訴を受けた。裁判は1970年10月に開廷したが、最終的にマーフィ側の正当防衛が認められ無罪判決が下された。

 1971年5月28日、航空機がバージニア州カタウバ付近でロアノークから20マイルの位置にあるブラシ・マウンテンの山中に墜落するという事故が起こった。当時、天候は非常に荒れており雨や霧の為に視界が悪かったという。この事故でマーフィを含む乗客5名とパイロットの合計6名が死亡した。墜落したのはエアロコマンダー500という双発機で、パイロットは民間パイロットのライセンスを有し飛行時間は8000時間を超えていたとされるが、能力の評価証明書は持っていなかった。

 1971年6月7日、マーフィは最高級の軍葬をもってアーリントン国立墓地に葬られた。葬儀の政府側代表は著名な第二次世界大戦復員兵の1人で、後に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ元大尉であった。マーフィの墓はジョン・F・ケネディ大統領の墓に次いで2番目に訪問者の多い墓だとされる。通常、名誉勲章受章者の墓碑は金箔で装飾される事が習わしとなっているが、マーフィの墓碑にはそれがない。これはマーフィは生前に「ごく普通の兵士」として葬られる事を望んでいた為である。1974年、事故現場から程近いところにマーフィの記念碑が設置された。

 その後、マーフィが死亡した航空機事故に関する議論が起こった。事故直前の1971年4月、マーフィは友人だった全米トラック運転手組合総裁ジミー・ホッファの釈放を求める訴えを起こしている。ホッファは1964年に不正な資金洗浄などに関与したとして有罪判決を受け収監されていた。マーフィと共にホッファの釈放を求める運動を行なっていたアーサー・イーガンは、マーフィの死が単なる事故では無かったのではないかと疑っている旨を語っている。ただし、ホッファはマーフィの死からおよそ7ヶ月後に釈放されており、法医学的にもマーフィの事故とホッファ事件の関与を示す証拠は残されていない。

 1971年5月28日死去(享年46)