ジェーン・マンスフィールド

ジェーン・マンスフィールド(Jayne Mansfield 本名:ベラ・ジェーン・パーマー 1933年4月19日生)
 [アメリカ・女優]



 ペンシルベニア州ブリンモア生まれ、テキサス州ダラス育ち。マリリン・モンローのように、1950年代を代表するブロンドのセックスシンボルの1人であり、PLAYBOY誌・1955年2月号のプレイメイトになったのをはじめとして、長年にわたり多くの雑誌に登場した。

 彼女はシアター・ワールド賞、ゴールデングローブ賞、全米制作者協会賞ゴールデン・ローレルを獲得している。マンスフィールドはプラチナブロンドの髪、ウェストが細くくびれた肉体、露出した胸の谷間を強調する衣裳で、数本の人気ハリウッド映画に主演した。マンスフィールドの活動期間は短かったが、興行収入において何度か大きな成功を収めた。1960年代に入りブロンドの悩殺的美女の需要が下降すると、低予算のメロドラマやコメディへ追いやられたが、人気は衰えなかった。その後も彼女は外国で、そして大成功したナイトクラブ・ツアーにおいて大衆を魅了し続けた。

 私生活ではスキャンダルを繰り返し、多数の男性と恋愛関係、肉体関係にあった。3回結婚し、2回離婚し、5人の子供がいたが、相変わらずスキャンダルは止まらず、パパラッチに始終話題を提供していた。

 1967年6月28日の夕方の仕事の後、マンスフィールド、恋人のサム・ブロディ、運転手のロニー・ハリソン、そしてマンスフィールドの子供たち、ミクローシュ、ゾルターン、マリスカの一行は、ニューオーリンズへ向けて出発した。マンスフィールドはそこで早朝のテレビ取材に出演することになっていた。6月29日午前2時25分頃、U.S.ハイウェイ、ルート90で1台のトラックが蚊の殺虫剤を噴霧したため、減速した大型トレーラーの後部に彼らの車は衝突した。車は激突の後、トレーラー後部と道路の間にめり込んだ。前部座席に乗っていた大人たちは即死した。後部座席に座っていた子供たちは軽傷で生き残った。

 マンスフィールドは頭部に重度の外傷は負ったが、彼女の首が切断されたという噂は偽りである。この都市伝説は警察の事故現場写真において、自動車の上部が実質的に切り裂かれていて、ブロンドの髪の頭に似たものが砕かれたフロントガラスに絡み付いていたことから生まれた。これがマンスフィールドが着けていたウィッグであったとも、彼女の実際の髪と頭皮でもあったとも信じられている。死亡診断書は、マンスフィールドの直接の死因を「頭蓋骨が押しつぶされ、頭蓋と脳が分離した」と記している。彼女の死後、全米高速道路交通安全委員会 (NHTSA)は全ての大型トレーラーの下部にガード(鋼の管でできた強固なバー)を取り付けるよう要求した。このバーはマンスフィールド・バーとしても知られている。

 7月3日、ペンシルベニア州ペンアーガイルにおいて、マンスフィールドの葬儀が営まれた。マンスフィールドは長らくカトリックに転向しようとしており、晩年にはサム・ブロディとの関係を通してユダヤ教に興味を持つようになっていたが、式典はメソジスト派の牧師により執り行われた。彼女はペンアーガイル南東のフェアビュー・セメタリーに埋葬された。彼女の墓碑には「We Live to Love You More Each Day」と書かれている。

 1967年6月29日死去(享年34)