東京宝塚劇場火災

東京宝塚劇場火災(1958年2月1日発生)
 [東京都千代田区有楽町の東京宝塚劇場で公演中に舞台部から出火し、火煙はたちまちにして同劇場をおおい消火設備、避難施設等が比較的良好であったにもかかわらず1~3階延3718㎡を焼失し、死者3名、負傷者25名を出すという戦後最大の劇場火災となった。]



 東京宝塚劇場は1階から3階までが東京宝塚劇場、4階は日比谷スカラ座(映画館)、5階は東宝演芸場であった。出火当時、東京宝塚劇場には約1300人、映画館には約1500人、演芸場には約200人の観客が入場しており、この日は東宝ミュージカル『メナムの王妃』と『アイヌの恋歌』の初日で、舞台は越路吹雪が主演する『アイヌの恋歌』の大詰めを迎えたところで、多くの俳優等が出演中であった。

 16時9分頃、舞台上では火事の場面の芝居が進行中で、炎上する情景の舞台効果をあげるために吹ボヤと呼ばれる点火用の小道具が使われていたが、火の粉が背景の幕に飛んだのに気づかず、そのまま舞台上に幕を吊り上げてしまった。劇に使用中の大道具(和船)にかくれていた大道具係の2名が、上手側上方に吊り上げてあったネットの幕のすそあたりがチョロチョロと燃えているのを発見し、「幕をおろせ」と叫んで舞台装置の甲板の上をわたり、燃えている幕の降りてくるのを持っていたハンマーで叩き消そうとしたが及ばず、火は幕を燃えあがり、舞台上手一杯に吊るされていた46枚の幕に燃えうつり急速に拡大していった。


 この時、たまたま観劇中の消防職員が舞台部上方から火の着いた布切れのようなものが落ち、その方向へ2名の者が走り寄って幕を引降ろすのを見て真火災を直感し正面出入口の電話で119番通報した。なお、この時までは観客は火の手を舞台の演出効果と信じて劇の場景に見入っており、立上る者なく、拍手を送った者さえいたという。また、火災発生の場内アナウンスの知らせもなかった。

 舞台部と観客部とを区画するシャッターのうち下手脇のシャッターが閉鎖できなかったため、この部分から客席に延焼すると、観客は騒然として総立ちになり、劇場内は大混乱に陥った。

 宝塚劇場の観客約1300名は、観客の一部の者及び従業員により全非常口を開放し居合わせた消防職員4名と従業員の誘導により、1階においては、正面玄関よりほとんどの者が避難し、南北非常口より約17%の者が避難している。2・3階の観客はほとんどが中央階段より避難、その他8名が南側の直通階段より避難している。4・5階のスカラ座の観客約1500名は従業員の適切な誘導により、2ヶ所の屋外階段で90%直通階段で約10%が比較的静かに避難した。5階の東宝演芸場の観客約200名は、劇場側から火災を知らされ、屋外階段からスムーズに避難した。

 出火当時は避難者と付近から駆付けた観衆で道路上は極度の混乱を呈し、消防車の進行及び水利部署不能の状態であった。先着隊到着時2・3階の南及び北側窓から黒煙が吹き出し、舞台部全面は最盛期であり、1~3階客席に延焼中で建物内部は濃煙と熱気により屋内進入が困難であった。

 死亡者は3名で、東宝女優の三宅康子と劇団若草の子役2名であった(避難中窒息、全身火傷)。死亡位置は、同劇場南側1階の舞台非常口のおどり場で3名ともかたまっていた。この3名は、中2階及び2階に控室をもち、出火を知り階下に逃れようとして、この場所まで避難し、煙にまかれたものと思われる。2月7日、殉職者3名の合同慰霊祭開かれた。