ボブ・ウェルチ

ボブ・ウェルチ(Bob Welch 1945年8月31日生)
 [アメリカ・ミュージシャン]



 ウェルチはショービジネスの家庭に生まれた。父のロバート・ウェルチはパラマウント映画で1940年代から1950年代にかけてで多くのヒット映画を手がけたプロデューサーであった。母のテンプルトンはシカゴのオーソン・ウェルズ・マーキュリーシアターで歌手・女優として活動していた。少年の頃、ウェルチはクラリネットを学び、ティーンエイジャーの頃にはギターへと学ぶ楽器が変わっていた。彼はジャズ、リズム・アンド・ブルース、ロックへの興味をふくらませた。

 1964年、ロサンゼルスを中心に活動するソウル・バンド「ザ・セブン・ソウルズ」にギタリストとして参加する。バンドはそこそこの成功をおさめるが、1969年に解散する。その後パリへ渡ったウェルチは、ボビー・ハント、ヘンリー・ムーアらと「ヘッド・ウエスト」というトリオを結成する。1971年にはフリートウッド・マックにサイド・ギタリストという形で加入。ウェルチはクリスティン・マクヴィーとともに、それまでブルース・バンドであったフリートウッド・マックのサウンドを、ポップでメロディアスな方向に変化させて行き、その後『枯れ木(Bare Trees)』(1972年)、『ペンギン』(1972年)、『神秘の扉(Mystery To Me)』(1973年)、『クリスタルの謎』(1974年)等、合計5枚のアルバムに参加している。1974年12月、ウェルチはバンドを脱退する。

 1975年、ウェルチはグレン・コーニックとトム・ムーニーとのスリーピースバンド、パリスを結成し、キャピトル・レコードから『パリス・デビュー』(1976年)をリリース。ドラムをムーニーからハント・セールスに替え『ビッグ・タウン2061』(1976年)をリリースした。この後、仮称「パリス3」の製作にかかるが、セールスが顔面麻痺を病み、更にコーニックが音楽から身を引いたため、ウェルチはほとんど一人で「パリス3」の製作を進める事になる。

 1977年9月、ウェルチは「パリス3」の予定で製作していたアルバムを、初のソロ名義のアルバム、『フレンチ・キッス』としてリリースする。ポップでキャッチーな曲で構成されたこのアルバムは200万枚売れ、ウェルチに最大の成功をもたらした。ミック・フリートウッドとクリスティン・マクヴィーが参加した「悲しい女」のリメイク、「ホット・ラヴ,コールド・ワールド」、「エボニー・アイズ」の、3つのヒットシングルを生んだ。次作『スリー・ハーツ』(1979年)は、『フレンチ・キッス』の焼き直し的なアルバムとなったが、売り上げは100万枚を突破し、トップ20ヒットの「プレシャス・ラヴ」が生まれた。その次のシングル「チャーチ」もチャート入りした。リリース後に日本公演を行っている。

 その後も、良質のアルバムをリリースして行くが、前2作に比べセールス的には落ち込んでいく。この時期は「Hollywood Heartbeat」という音楽番組のホストを務めるなど、TVタレントとしても活動した。その後、ヘロイン中毒で入院し、麻薬所持で逮捕された後しばらくウェルチは表立った音楽活動から遠ざかる。1987年にロサンゼルスからアリゾナ州フェニックスに移り、サウンド・トラック製作など再び音楽活動を始めたウェルチは「Avenue M」を結成し数回のライブを行った。1999年、少年時代に影響を受けたというジャズをベースに、打ち込みを多用した『Bob Welch Looks at Bop』という個人趣味的なアルバムをリリース。その後、フリートウッド・マック、パリス、ソロ時代の曲を、ほとんどウェルチ一人でレコーディングし直した『His Fleetwood Mac Years and Beyond』(2003年)と、『His Fleetwood Mac Years and Beyond, Vol. 2』(2006年)をリリースしている。

 2012年6月7日、テネシー州ナッシュビルの自宅で、銃で自らの胸を撃って自殺しているところを妻に発見された。自殺の原因は健康問題で悩んでいたとみられ、遺書も見つかった。

 2012年6月7日死去(享年66)