中山歌子

中山歌子(なかやまうたこ 本名:中山さだ 1893年11月15日生)
 [女優]



 出身地は不明。両親はある華族の家に出入りしていた呉服屋の番頭とその家の娘といわれている。1911年、この年設けられた帝劇歌劇部に一期生として加入。この年の10月に公演された『カバレリヤ・ルスチカーナ』で初めて舞台に立つ。1912年からはジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー夫妻の指導を受けながら舞台に出演した。1913年、同期である松山芳野里と結婚(のちに離婚)、9月に歌劇部改め洋劇部を卒業。

 1919年3月、新芸術座が有楽座で上演した『カルメン』に主演。同年読売新聞社が主催した美人女優コンクールで1位となる。1920年、女形から女優への転換のため新設された日活向島撮影所第3部に森英治郎・酒井米子とともに入社。『朝日さす前』で映画に初出演する。酒井の退社後は日活の女優のトップとして活躍する。

 1922年、歌手として「船頭小唄」をレコーディング、ヒコーキ・レコードより発売される。翌1923年2月には浅草の御国座で「瀕死の白鳥」を披露。その後、肺結核のため日活を退社する。


 1925年9月5日に大岡山の自宅で養女(9歳)、妹(25歳)とその内縁の夫(23歳)が強盗に殺害される事件(大岡山事件)が発生。殺害された女児はもともと歌子が養子として迎えた子であり、同じく犠牲者となった妹(正確には姪)は浅草オペラでデビューし日活の女優として活動した経験もあった中山愛子だったのである。

 歌子は鎌倉のサナトリウムで療養していたため難を逃れた。残ったことから生きる希望を失い、心に大きなダメージを受けた歌子は、天理教に入信し信仰の道に入った。そして、1928年4月に病人の意のままに事件のあった大岡山の自宅で死去した。

 1928年4月?日死去(享年34)