風戸裕(かざとひろし 1949年3月13日生)
[レーシングドライバー]
千葉県出身。1949年3月13日、当時電子顕微鏡技術において最先端を行き、世界中から大きな評価を得たことで知られる日本電子光学研究所創立者である風戸健二の次男として生まれる。
1965年に16歳で軽免許を取得し、翌1966年にはマツダ・キャロルを買ってもらう。この車はすぐにチューニングが施され、ジムカーナに4戦ほど参戦。優勝2回に2位1回の成績を収める。
1967年に18歳になるとすぐに普通免許を取得し、ホンダ・S800を購入。さらにその1ヶ月後にA級ライセンスを取得した。そしてこの1ヵ月後に行われた第4回日本グランプリを観戦し、触発された風戸は、それから僅か11日後の5月13日~14日に船橋サーキットで行われた日刊スポーツJr.チャンピオンレースに、自身のホンダ・S800でデビューし2位入賞を遂げた。
1968年、レース活動を本格化。この年は富士スピードウェイを主戦場にホンダS800で年間14戦に出場した。
1969年、それまで使っていたホンダ・S800から、マシンの面倒を見てくれていた神山モータース経由で、鈴鹿サーキットが放出したブラバムBT16を購入。同年5月に行われたJAFグランプリのメインレースに出場し、1000cc以下クラスで2位、総合7位に食い込む健闘を見せた。
1970年、風戸レーシングリミテッド設立。 この年ポルシェ・910を駆って、全日本SIIチャンピオンを獲得する。
1971年、富士グランチャンピオンレースにポルシェ・908/2で参戦を始め、シリーズランキング4位。また、ローラT222・シボレーでアメリカのカナディアン-アメリカン・チャレンジカップに日本人として初参戦。シーズン最高位は5位、年間ランキング10位に入る。
1972年、マーチとヨーロッパF2シートの契約交渉を行うが、ニキ・ラウダに破れる。しかしマーチのセミ・ワークスチームより、前年のチャンピオンマシンであるマーチ722・FORDで出場が決定。この年はヨーロッパでの活動に専念し、年間ランキング24位。
1973年、新たな体制として、自らのマシンをメンテナンスするためにノバエンジニアリングを設立。国内では富士GCシリーズに参戦し、シリーズランキング3位。一方、海外においてはチーム・ニッポンとしてヨーロッパF2にGRD・FORD&シュニッツァーBMWで参戦し、年間ランキング21位。
1974年、シェブロンのワークスチームに加入し、ナンバー2ドライバーとしてヨーロッパF2に参戦することが決定。日本人ドライバーの中で「F1に最も近い男」と呼ばれた。
6月2日、富士GC・第2戦にシェブロンB26・BMWで出場。2ヒート目のスタート直後、直線後半部分で、2番手争いをしていた黒澤元治と北野元のマシン同士が数回接触。その果てに北野はコースから弾き出され、コース脇のダート部分に足を取られコントロール不能に陥った。
北野は前方に風戸、後方にの鈴木誠一の間を横切る形でそれぞれの左側に接触、風戸は左巻きにスピン、当時グランドスタンド前に設置されていたガードレールを寸断し信号灯に激突。鈴木は右巻きにスピンしリア部分からガードレールの支柱に一直線に突っ込んでいった。その後何度かの衝突や横転を繰り返した後、ガソリンタンクが破裂し二台は一瞬のうちに炎に包まれ、二人は必死の消火も虚しく焼死した。