アンドリュー・キーホー

アンドリュー・フィリップ・キーホー(Andrew Philip Kehoe 1872年2月1日生)
 [バス学校爆破事件犯人]



 ミシガン州テカムセ生まれ。母はまだキーホーが幼い頃に死亡したため、父は再婚している。キーホーはこの継母と仲が悪かったという。キーホーが14歳の時、燃料のオイルの炎が継母に燃え移り、火傷を負う事故があった。キーホーはバケツの水で消火する前の数分間、火に包まれる彼女の姿を見つめていたという。継母は後にこの時の火傷により死亡した。

 地元の高校を経て、ミシガン州立大学を卒業したキーホーは、1912年にエレン・ネリー・プライスと結婚し、1919年にミシガン州バス郡区はずれにある農場を購入して移り住んだ。キーホーは近隣の住民からは「教養があるが、それをしきりにひけらかしたがり、自分の意見に従わない人に非寛容な人物」と思われていた。

 バス郡区は、ミシガン州の州都ランシングから北に16km離れた小さな町で、1920年代初めまでは農業地帯であった。1922年、バスの有権者達は統合学校の建設を決定した。開校時には第1学年から第12学年まで合計236人の生徒が入学した。キーホーは倹約家であるという評判のため、1924年には教育委員会の収入役に選出された。

 20世紀に入ると、アメリカやカナダにおけるワン・ルーム・スクール(教室1つのみからなる学校。全生徒が1人の担任教師の授業を1つの教室で学習する。)は衰退しはじめた。バス郡区の教育者達は、子供達がより良質な教育を受けることができるよう、学年別に分けられた複数の学級からなる、高い品質の施設を持つ「統合学校」の設立が必要であると考えた。何年間もの議論の末、バス郡区は新学校設立のためのプロジェクトを発足させ、新たに財産税を土地所有者に課すことにより校舎建設資金を調達することにした。

 キーホーは新たな財産税に腹を立て、自分の経済状況の厳しさを理由にこの増税に対する不服を申し立て減税を訴えた。また、バス統合学校の校長エモリー・ヒューイックを、経営上失策を犯したとして繰り返し非難した。この頃、妻ネリーは慢性的な結核を患っており、彼女の度重なる入院は、キーホーが多額の負債を抱える要因の一つになった。キーホーは火災保険や債権者への支払いを止めたため、農場に抵当権を持っていた債権者達はキーホーの農場を差し押さえるに至った。この件がキーホーの犯行の動機となった。

 1926年の初夏、キーホーはパイロトール(第一次世界大戦中から使用され始めた無煙火薬の一種)を1トン以上も購入した。当時パイロトールは、農場経営者の間では地面掘削用として普通に用いられていた。1926年11月、キーホーはランシングに自動車で出掛け、スポーツ用品店でダイナマイト2箱を購入した。ダイナマイトも農場では普通に使用されるものであるうえ、キーホーはダイナマイトを少しずつ、様々な店で時期をずらして購入したため、周囲から疑われることはなかった。

 1926年の冬、教育委員会はキーホーに校舎内の補修を行うよう求めた。多くの人々から優秀な「何でも屋」と見なされていたキーホーは、電気設備にも詳しいことで知られていた。設備の補修を委託された教育委員会の委員として、キーホーは学校に自由に出入りが出来たうえ、校内に彼がいるのを見ても不審に思う者は誰もいなかった。こうしてダイナマイトと大量のパイロトールを、何ヶ月もかけて学校内に秘かに仕掛けていった。

 キーホーは事件に先立ち、その後の犯行をほのめかすような発言をしている。例えば、事件の数週間前に使用人に給与を支払った時には、「きみ、この給料は大切にしろよ。なぜならこれはきみが受け取る最後の給料かもしれないからね。」と述べている。また、教師の1人がキーホーに電話で、自分の学級のピクニックのために手袋を貸してもらえないか尋ねた際には、「ピクニックに行きたいのなら、すぐに行った方がいい。」とも発言している。

 1927年5月16日、妻ネリーが入院していた病院を退院すると、キーホーは妻の頭部を鈍器で殴打して殺害した。後に彼女の遺体は、農場の鶏小屋の後に置かれた手押し車に乗せられているのを発見された。その手押し車の周りには銀製品や宝石類、金属製の金庫が積み上げられていた。金属製の金庫の隙間からは、焼けた紙幣の灰も見えていたという。キーホーは農場中に導線を張り巡らせ、全ての建物内に自家製のパイロトール爆弾を仕掛けていた。農場の動物達はすべて、囲いに縛り付けられていた。爆発後の火災により動物達が確実に焼け死ぬことを意図していたのである。

 事件前日、キーホーは古くなった道具や、釘、さびた農業用機械、シャベルなどの金属製品をはじめ、爆発の際に飛び散って被害を与えることができるあらゆるものを自動車の後部座席に目一杯詰め込んだ。後部座席が一杯になると、キーホーは大量のダイナマイトと装填されたライフル銃を前部座席に積み込んだ。

 1927年5月18日午前8時45分頃、キーホーは農場内の爆弾を爆発させた。午前9時45分には、学校が爆発し、校舎の北側部分が崩壊して校舎の外壁の多くは崩れ落ちた。屋根の先端は地面に落下し、生徒達は崩れ落ちた屋根の下敷きになったり、空中高く放り投げられ校舎の外に投げ出された生徒もいた。

 救助にあたっていたある男性は、生徒達に被さっている瓦礫を動かすのに必要な太いロープを取りに自分の農場に引き帰した。そのすれ違い様に、キーホーが自動車で学校に向かって行くのを目撃している。その時のキーホーはにっこり笑って手を振っていたという。

 学校での爆発からおよそ30分後に、キーホーは自動車で学校にやって来て校長を自分の自動車へ呼び寄せた。校長がキーホーの自動車に近付いた時に、キーホーはライフルを取り出して後部座席に発砲し、車内のダイナマイトが爆発した。この爆発によりキーホー、校長が死亡したほか、第2学年の8歳の少年が崩壊した学校から抜け出したところを、この爆発により飛んできた金属片が当たって死亡した。他にも数人がこの時の爆発により負傷した。

 救助活動が懸命に続けられている中、校舎南側の地下室からさらに230kgものダイナマイトとパイロトールが救助隊により発見された。

 この事件により45人が死亡、58人が負傷し、犠牲者の大半は爆破されたバス統合学校の生徒達(7歳~12歳)であった。アメリカ合衆国史上、学校で発生した大量殺人としては犠牲者数が最多のものとなった。

 1927年5月18日死去(享年54)