金川真大

金川真大(かながわまさひろ 1983年生)
 [殺人犯]



 東京都出身で、宮城県仙台市や神奈川県横浜市などを経て茨城県土浦市に移る。霞ヶ浦高等学校時代に弓道部に所属し、全国大会にも出場するほどの腕前だった。しかし高校卒業後は進学も就職をせず、テレビゲームをしたりマンガを読んだりして過ごしており、家族とも関わりを避けて食事もひとりでとっていたという。2003年8月に行われたゲームの関東地区の大会で準優勝となる。金川はゲームに熱中する一方で、現実の自分には希望が見いだせず、死ぬことを考えるようになり、確実で苦しまず死ぬには死刑が一番だと思うようになった。

 2008年1月と2月に渡って凶器となる包丁とサバイバルナイフを購入。実の妹をはじめ、小学校や中学校、高校、そしてネットオークションで商品を送ってこなかった人物などを殺害対象にする。3月19日、小学校襲撃を企てようとしたが、たまたまその日は小学校が卒業式で保護者がいたために断念、妹殺害も妹と会えなかったために断念し、たまたま外にいた近所の男性(当時72歳)を背後から刃物で刺して殺害した。金川は最寄りの荒川沖駅から常磐線の列車に乗り、東京の秋葉原に逃亡。都内のホテルに宿泊し、髪を切るなどの変装を行った。

 現場に放置された自転車から被疑者として金川が浮上した。老夫が殺害された二日後の3月21日、茨城県警は金川を指名手配とした。3月22日に金川は携帯電話で茨城県警に電話し、「早く捕まえてごらん」などと挑発した。その後、金川は土地勘のある常磐線ひたち野うしく駅から荒川沖駅に向かって歩いたが、殺害できそうな通行人がいないため断念、秋葉原に戻った。

 3月23日午前11時ごろ、金川は黒い上着に黒いニット帽を被り、荒川沖駅付近のさんぱる(長崎屋)前、西口から東口にかけて、通行人と警察官の8人を刃物で刺した。5人は駅改札近く、2人はさんぱる前、1人は通路を降りた所で刺され、通路を降りた阿見町の27歳の男性が死亡した。金川は血の付いた包丁を持ったまま、駅からおよそ200m離れた荒川沖地区交番に行き、交番に備え付けてある呼び出し電話機から「俺が犯人だ。早く来ないと犠牲者が増えるぞ」と自ら通報した。そして、駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。警察の取調べでは金川は携帯のメールで、「俺は神だ」「俺のやることが全てだ」などと記していたとされている。また部屋には「死」という文字と意味不明のロゴマークが壁じゅうに描かれていた。3月25日に送検のため、土浦署を出る際には舌を出すなどの行為が見られた。水戸地検は9月1日、約4ヶ月の精神鑑定の結果、金川を殺人などの罪で起訴した。

 以下のような茨城県警のずさんな対応が浮き彫りになり、マスメディアを介して批判された。
・荒川沖駅の捜査員は、重点的に配置したはずだったが、互いに連絡を取り合う手段が用意されていなかった。
・同駅で警戒していた捜査員は、金川の写真を持っていなかった。
・駅側に対し、警戒に当たっていることを、まったく連絡していなかった。
・被害者の中には、管轄である土浦警察署の29歳の巡査も含まれていた。
・犯行後、金川が自首した交番は空き交番だった。金川自らの通報で駆けつけた警察官がようやく金川を現行犯逮捕した。

 2009年5月1日より水戸地方裁判所にて初公判が開かれ、金川は「自殺したいために凶行に及んだ。」と述べた。なお、金川は公判中に被害者の傷跡の画像を見て失神、30分間審理が中断された。また、2009年7月3日の第5回公判では閉廷直前、裁判が長引くと知った金川は激高し、目の前の机をひっくり返して一部を破壊、2009年9月3日の第6回公判では傍聴席に向かって笑みを浮かべてピースサインをする場面もあった。11月13日に、検察側の論告求刑と弁護側の最終弁論が行われて結審。弁護側は 「死刑を求める被告に死刑を与えるなら死刑が刑として機能しない。強盗に金をやるようなものだ」と減刑を求めたが、12月18日、求刑通り死刑判決となった。判決文は「犯行は人格障害によるもので、行為の是非の弁別性、行動制御能力には影響していない。完全な責任能力がある」と認定したうえで、「極めて残忍な犯行であり、死刑願望を満たすという動機は強く非難されなければならない。わが国の犯罪史上、まれな重大な事件。反省の態度も全くない。更生の可能性は極めて厳しい」と指摘した。弁護人は即日控訴したが、金川は12月21日に行われた読売新聞社の取材に対し、「完全勝利といったところでしょうか。(死刑願望が)変わることはない」と話したうえで「常識に縛られている側から見てそう(そのように)見えてもしかたない」と述べ、「後は(死刑)執行までの時間をいかに短くするか。(国が執行に)動かなければ、裁判に訴える」と、死刑判決は望んだものであり死刑執行されなければ訴えると、自身の願望が成就した事に対し笑みを浮かべていたという。なお、金川は12月28日に控訴を取り下げる手続きをし、一週間後の2010年1月5日に死刑判決が確定した。

 金川は1審判決前の2009年6月に水戸拘置支所で産経新聞の取材に応じ、「死刑になりたい。生きるのがいやになった」という心中を述べた。また、「自殺はどんな方法であれ、自分の体に痛みを加える。そんな勇気がなかったので殺人をした」と話し、最後まで反省の言葉はなかったという。金川は接見室での取材に終始満面の笑みで応じ、遺族や被害者に謝罪はないのかという記者の問いに、「痛かったであろうことは常識で考えたら分かるが、特に謝罪や思いはない」と話し、さらに笑顔を見せたという。金川は、拘置所内では「日々、殺すことしか考えていない」と断言し、「殺すこととは、もし外に出たら、どうやってまた殺しをするかということ。それは死刑になるため。『今解放されたら、また殺人をするか』と問われたら、答えは『します』しかない」と言い切った。死刑になりたいと考えるようになった理由については、「親が悪いとか教育が悪いとかではない。こう育ったのも運命だ」と述べた。接見終了後には「間にアクリル板があるから記者さんと握手もできない」とつぶやき、「こうして拘置所でメディアの方と会うのは暇つぶし。反省したというわけではない」と言い残し、接見室を後にしたという。

 2013年2月21日、谷垣禎一法務大臣の命令により、東京拘置所で金川の死刑が執行された。事件発生から5年となる直前に執行された。

 2013年2月21日死去(享年29)