田中聖二

田中聖二(たなかせいじ 1977年1月1日生)
 [プロボクサー]



 鳥取県出身。高校時代は、野球部に所属。高校卒業後、プロボクサーを目指し単身大阪に渡り、金沢ジムに入門。1997年7月31日、プロデビュー。その後、7戦目まで6勝(1KO)1分という順調な成績を残すが、1998年11月9日に、後の日本ライトフライ級王者興梠貴之に6回判定負けで初黒星を喫したのを皮切りに3連敗。

 2001年には元世界ランカーの藤原康二、元日本ランカーの福山登との引き分けを2つ挟んで5連勝するが、同年11月2日に後のOPBF東洋太平洋フライ級王者で世界挑戦も経験する小松則幸に7回負傷判定負け。さらに、2002年8月20日には元WBC世界スーパーフライ級王者でもあるWBCインターナショナル同級王者ジェリー・ペニャロサに挑み、8回TKO負け。

 2004年11月27日、25戦目にして日本王座初挑戦。横浜文化体育館で日本スーパーフライ級王者有永政幸に挑み、10回判定勝ち。王座獲得に成功した。

 2005年4月3日、日本王座初防衛戦。IMPホールで6戦目の新鋭名城信男と対戦した。田中と名城はともに大阪市内のジムに所属していることもあり、お互い出稽古をするなど頻繁に合同練習を行っていた。挑戦者・名城は前年8月、2度の世界挑戦経験を持つ本田秀伸とのノンタイトル戦に10回判定勝ちし、世界ランク入りを果たしていた。王者・田中は試合当日、同年1月に結婚したばかりの妻に「今から試合に行きます。必ずベルトを持って帰ります。勝つ、勝つ、必ず勝って帰ってくる」とメモを残して自宅を出た。

 試合は最終10回TKOで敗れ、王座陥落。試合終了と同時にリングに崩れ落ちたが、すぐ意識を取り戻す。新王者・名城に「やっぱり強かったよ」と言い、お互いに握手し健闘を称えあった。田中はそのまま自分の足で歩き、控え室まで戻ったが、控え室でスタッフに頭痛を訴えた後、意識を失い緊急入院。搬送先の病院で急性硬膜下血腫と診断され、7日に開頭手術を受ける。

 その後、一時期容態が安定したが、2005年4月15日19時頃に容態が急変。意識を取り戻すことなく、同日20時43分に死亡した。同月18日に大阪・平野区で行われた告別式には、世界王座を獲得して間もない元スパーリングパートナーの長谷川穂積、同じ金沢ジムの徳山昌守、石田順裕、小島英次ら約200人が参列した。

 田中を破った名城は大きなショックを受け、人の命を奪ってまで獲得した王座になんの意味があると引退も決意したという。名城は1ヶ月間自宅に引きこもっていたが、同僚の試合見学中の会場で、田中の父親と対面。この席で「(死亡した)息子のことは気にせず、これからも頑張って」と励まされた。その後、名城はWBA世界スーパーフライ級王座を2度獲得。たびたびWBAのチャンピオンベルトを携えながら田中の墓前に赴き、勝利を報告している。

 2005年4月15日死去(享年28)