4代目三遊亭小圓遊(よんだいめさんゆうていこえんゆう 本名:関根尚雄 1937年8月3日生)
[落語家]
群馬県出身で東京育ち。1955年、東京都立文京高等学校を中退し、4代目三遊亭圓遊に入門。前座名「金遊」。1958年、二ツ目昇進。1964年7月13日より、JRN系列で月曜日から土曜日の13時から18時に放送していた昼ワイドラジオ番組『オーナー』の「落語天気図」コーナーにレギュラー出演し「お天気や金ちゃん」として人気を得る(1966年10月1日まで)。
1966年5月15日から放送された『笑点』(日本テレビ)に第1回から参加。歌丸との罵倒合戦が名物となり、二人の罵倒合戦は『笑点』の高視聴率を打ち出す原動力の一つとなった。『笑点』では「ボクちゃん~」で始まるセリフの「キザなキャラクター」を演じていた小圓遊であったが、実際は古典落語を得意とする落語家であり、そのキャラクターとのギャップに苦しんでいたとされる。小圓遊がギャップを埋めようと、プライベートでの服装を和装から洋装へ変えたりするなど試みていたがうまくいかず、次第に酒量が増えていった。酒浸りになっていたせいか呂律が回らなくなっており、『笑点』の収録時には一日中酒の匂いが消えなかったこともあった。そのため、段々と受け答えが悪くなっており、台本や編集、当時の司会者だった三波伸介のフォローで何とか遣り過ごすことも多くなっていた。三波や当時のプロデューサーからは「酒を取るか、笑点を取るか」と迫られており、スタッフや共演者の真意を理解した小圓遊は収録前夜に酒を控えるなど、酒量が少なくなっていったという。
小圓遊は亡くなる10年以上前から糖尿病を患っており、長期入院も経験。さらに、1975年には栃木県宇都宮市で交通事故に遭い、足を負傷するなど災難が続いた。小圓遊が亡くなる約1ヶ月前に亡くなった初代林家三平は、「小圓遊さん、最近痩せちゃって。医者にみせているのかねえ」と病床で小圓遊の健康状態を心配していたという。また、桂歌丸によれば『笑点』15周年ハワイ公演から帰国した際、成田空港から出てきた時に花壇のところで力なく座り込んでしまうほど健康状態が悪く、この時が歌丸が目にした小圓遊の生前最後の姿となったという。
1980年10月4日
、山形県村山市民公民館で行われた山形放送主催の「秋まつり爆笑大会」では、開演前から「気分が悪い」と訴えて二度吐血していた。主任を務めた昼の部では「蛇含草」を演じる予定だったが、マクラを語っている際に気分が悪くなり、約7分で高座を下りた。戻った楽屋のトイレで再び吐血し倒れ、16時50分、北村山公立病院へ緊急搬送される。病院へ搬送されてからも、午後5時半から始まる夜の部が気になったらしく、プロダクションの関係者には「夜の部もやりたいよ。着物を着せてくれ」「点滴を受ければ大丈夫」「着物を探してくれ」と漏らしていたが、間もなく昏睡状態に陥った。翌5日、家族も病院に駆けつけ枕元で回復を祈っていたが、19時44分、食道静脈瘤破裂により死去。43歳だった。なお死去した当日は山口百恵の引退コンサートが行われた日であり、人気落語家の死去でありながら、その報道は山口百恵の影に完全に隠れる形となってしまった。
山形での公演には林家木久蔵(現:木久扇)とバラクーダも出演しており、木久蔵は小圓遊の最期を看取っている。搬送時には既に生命が危険な状態であったため家族を呼んだが、待っている間は注射で眠らされるのを拒み、看護師達を相手に笑わせていたという。小圓遊は意識不明に陥る直前に「着物を貸してくれ」と話しており、それが最期の言葉となった。戒名は「欣笑院圓覚尚道居士」。
10月19日の『笑点』で「小圓遊追悼大喜利」が行われた。小圓遊の定位置には座布団と生前着用していた水色の色紋付が置かれ、小圓遊以外のメンバー5人(桂歌丸・林家こん平・林家木久蔵(現:林家木久扇)・林家九蔵(現:三遊亭好楽)・三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽))で大喜利を行っている。三波や歌丸も終始、目を潤ませながら大喜利を進行していた。三波が独り言のように、「馬鹿が一人で逝きやがって、私は寂しいですよ」と言ったという。そして冒頭の挨拶で歌丸が「碁敵は憎さも憎し懐かしし」と挨拶したという。
「小圓遊」の名跡は明治時代の初代から4代を数えたが、2代目を除く3名がいずれも若くして旅先で急逝を遂げていることでも知られる。そのこともあってか、1980年に4代目が急逝したのを最後に、この名跡は使われることもないまま空き名跡になっている(事実上の封印)。
1980年10月5日死去(享年43)