音楽が死んだ日(1959年2月3日発生)
[3人のロックンローラーが航空事故に巻き込まれ一度に全員亡くなった悲劇。]
ホリーとヴァレンスの遺体はすぐそばにあり、ビッグ・ボッパーのものはフェンスを越えて隣のトウモロコシ畑に投げ出されていた。ピータースンは機体に閉じ込められていた。サーフ・ボールルームの支配人キャロル・アンダーソンはその日、ミュージシャンたちを空港へと送り、離陸するところもみていた。遺体が本人たちだと確認したのも彼だった。検視の結果、4人は脳への「強い衝撃」によって即死したことがわかった。ホリーの遺体は、フェイクレザーの黄色いジャケットをまとっていたが、背中にある4つのシームはほぼ完全に裂けていた。頭蓋骨は額の中央付近で裂け、頭頂部にまで達しており、脳組織の半分が欠損していた。両耳から出血があり、顔面には複数の裂傷があった。骨格への激しい衝撃で、胸部は硬度を保っておらず、両足は複雑骨折していた。
調査官の下した結論によれば、この墜落は悪天候とパイロットのミスが重なって発生したものである。ピータースンは制度的にはまだ計器類の訓練を受けている途中であり、悪天候を飛ぶための力量が問われている段階だった。つまりベテランに頼らず、さらに目視ではなく計器を確認しながら飛ぶことが要求される場合には力不足だったのだ。民間航空委員会(CIV)の最終報告には、ピータースンは飛行機に備えつけられる水平姿勢指示器の訓練中であり、ボナンザに搭載されたスペリー・ジャイロコンパスはすでにまったく一般的でなかったと記されている。重要なのは、飛行機のピッチ姿勢を示す計器は二つあり、それぞれ正反対の表示方法を採用していたということだ。つまり委員会は、ピータースンが実際には機体は下降しているのに、上昇していると考えたのではないかとしている。またピータースンはルート上の悪天候に適切な注意を払っていなかったとも考えられている。もし彼が自分の分をわきまえていたら、飛行を延期していただろうということである。
2007年、ビッグ・ボッパーの息子が、父への検死結果について再調査をおこなった。これは墜落の2ヶ月後にトウモロコシ畑でホリーの22口径の拳銃が発見されたという有名な逸話にも関わっている。つまり再調査は、偶然に銃が暴発したため墜落が起きたのではないかという疑問に答えるためのものだった。またビッグ・ボッパーの遺体が現場から離れていたため、彼は残骸から歩いて抜け出すことができた可能性も考えられた。しかしビッグ・ボッパーの遺体は保存状態こそよかったが、「ひどい骨折」のため、墜落の衝撃で絶命したことが裏づけられた。
1950年代を愛するウィスコンシン州の男性ケン・パケットは、1988年に鋼のギターをかたどったステンレスのモニュメントをつくった。そこでは3人のアーティストたちの名前を冠したそれぞれのレコードもモチーフにされている。このモニュメントはクリアレイクから北へ8kmの、とある農園に置かれている。墜落現場の入り口には角枠の眼鏡をかけたポストサインがある。またパケットは3人のアーティストに捧げるステンレスのモニュメントをウィスコンシン州グリーンベイのリバーサイド・ボールルームにもつくっている。そこはバディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーの3人が1959年2月1日の夜に演奏をした場所である。二つ目の記念碑の除幕式は2003年6月17日に行われた。2009年2月にはパケットによって新たなモニュメントがつくられた。これはパイロット、ロジャー・ピータースンへ向けたもので、やはり墜落現場に設置された。