ライスシャワー(1989年3月5日生)
[競走馬]
1989年3月、栗林運輸会長の栗林英雄が北海道登別市に所有するユートピア牧場に生まれる。小柄ながら健康で、近隣の牧場から訪れた人々からも体躯のバランスの良さを高く評価され、購買の申し入れもあった。1990年10月末には、育成調教を行うため千葉県にある分場・大東牧場に移動。外見では「身体の硬い馬」という印象を与えていたが、担当者によれば騎乗してみると柔らかく、「雲の上に乗っているような気分だった」という。また、性質的に馴致に全く手が掛からない馬であり、育成の進捗は常に他馬よりも先んじていた。
育成を終えたのち、1991年3月23日に茨城県美浦トレーニングセンターの飯塚好次の元へ入厩。4月4日には「ライスシャワー」と馬名登録された。これは結婚式のライスシャワーのように、本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるようにとの意味が込められていた。異説として、秋篠宮文仁親王と紀子妃の結婚の時期であったため、祝賀の気持ちを込めたとも言われている。飯塚はライスシャワーの印象について「男馬にしては体が小さい。それもあって大物感はなく、もちろんグレードレースでどうの、といったことは少しも考えなかった。ただ小さいけれど、いかにもバランスがいい体型なので、うまくいけば中堅クラスまではいくかな、と思いましたよ」と述べている。担当厩務員となった川島文夫は、体の小ささが目について期待よりも不安の方が大きかったという。
1991年8月10日、新潟競馬場のデビュー戦で初戦勝利を挙げた。その後は勝ちきれないレースが続いたが、翌1992年の菊花賞で3分5秒0という当時の芝3000mにおける日本レコードタイムで重賞初制覇をクラシックで果たし、翌1993年の天皇賞(春)では走破タイム3分17秒1で菊花賞に続き再びレコードタイムで勝利した。菊花賞と天皇賞では、それぞれミホノブルボンのデビュー以来8連勝・クラシック三冠、メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻止し、「刺客」等の異名を取った。
その後は長いスランプが続いたが、1994年の日経賞では2着と復活の兆しを見せた。しかし、天皇賞の前週である同年4月16日の調教中、右前管骨に故障を発生する。競走生命を危ぶまれる重傷で、この時点で引退が検討され、種牡馬となる道が模索された。しかし長距離競走以外の実績に乏しかった点や、小柄な馬体が敬遠され受け入れ先が見つからず、現役続行が決定する。そして、2年ぶりに出走した1995年の天皇賞(春)では、4番人気の評価であったが、1993年の同競走以来728日振りの勝利を飾り見事復活を果たした。
天皇賞(春)での激走の反動は大きく、陣営は疲労回復のために秋まで馬を休ませ、それで調子が戻らなければレースに出さずそのまま引退させることも考えていた。しかし第36回宝塚記念のファン投票で1位に選出され、またこの競走が当年1月に発生した阪神・淡路大震災の震災復興支援競走と位置づけられたことにより、出走が決定する。この背景には「ファン投票1位」に対する義務の他に、阪神競馬場の被災により得意の京都競馬場で競走が施行されること、近走の酷量からは望外の軽量となる56kgで出走できることなどがあった。さらに種牡馬入りが再度検討された際、やはり中距離競走での実績が必須であると結論付けられた事情もあった。
当日は3番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。鞍上の的場均は最初のコーナーを回った時点で様子がおかしいことを感じ取り「今日は勝つどころじゃない、慎重にまわってこようと」考えたという。しかし、第3コーナーでライスシャワーは自らスピードを上げたが、直後に前のめりになり、いったん身体を起こした後に人馬共に転倒。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており手当ての術が無く、予後不良と診断された。トラックが直ちに用意され現場まで直行し、その場に幔幕が張られた中で安楽死処分となった。的場は打撲で済んでいたことから、その最期を看取った。最期の様子は明らかではないが、遺体を運ぶ馬運車を最敬礼で見送る的場の写真が残されている。担当厩務員の川島は、手綱を握りしめたまま泣いていたという。