福澤幸雄(ふくざわさちお 1943年6月18日生)
[レーシングドライバー/モデル]
事故発生直後にトヨタ側がとった対応は、非常に不穏当なものであった。当時は、特にライバルの日産自動車との間でレーシングカーの開発競争にしのぎを削っていた時期でもあり、警察の現場検証に対してさえも「企業秘密保持」との表向きの理由から、事故車両を早々と撤収し証拠隠蔽を図った。さらに証拠資料として事故車両とは全く違うタイプのレーシングカーの写真を提供したり、また事故原因については、「車両側ではなくドライバー側に非がある」と主張するなど、一方的で大変杜撰な対応であった。
この事は、当時のマスコミも事件扱いし、多くの新聞や雑誌、果ては国会でも取り上げられ、社会問題にもなった。このようなトヨタの不誠実な対応に怒りを覚えた父の進太郎は、その後息子の幸雄の名誉回復のため、トヨタを相手取り訴訟を起こした。結果的には、1981年にトヨタが遺族側に6100万円を支払う形で和解が成立したが、事故原因の真相については、未だに謎に包まれたままである。
なお、福澤はコース直線部分のコース脇の芝生に建てられた標識の鉄柱に激突して死亡している。目撃証言では直線部分で突然クルマの挙動が不安定になり、コース右側の標識に吸い込まれるように激突したという。遺族は車両側の原因による事故の可能性を強く疑っているが、物証はすべてトヨタ側の手中にあり、裁判でもトヨタ側の証拠隠蔽により真相は明らかに出来なかった上、トヨタ側はその後も真相を公表することを拒んでいる。
本件は、トヨタという巨大な企業の力により封印され、「タブー」とされる出来事であり、その後今日に至るまであまり語られることはないが、今なお真相究明が望まれる。ただ少ない情報では、トヨタ7と見られていた車が開発途上の新型のJ6だったという説があり、マシン側の設計及び制作上の問題という説、さらに進太郎の証言では前日非常にナーバスになっていたという事、「出来るなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」という言葉を漏らしていたというメンタル的な不安定説がある。いずれにしろ、幸雄の死亡事故はこの後に訪れる日本レース界の暗黒時代の序章だったのかもしれない。
1969年2月12日死去(享年25)