マルコ・シモンチェリ(Marco Simoncelli 1987年1月20日生)
[イタリア・オートバイレーサー]
1996年から2000年までの間、イタリア国内のミニバイク選手権で活躍する。同選手権で2年連続タイトルを獲得した後、2001年には125ccのホンダ・トロフィーに参戦。翌2002年にはヨーロッパ選手権125ccクラスのチャンピオンとなり、同年にはロードレース世界選手権125ccクラスにデビューを果たし、6戦に出場した。
2003年にはマッテオーニ・レーシングチームからフル参戦を開始する。ルーキーイヤーは堅実にポイントを稼ぎ、最終戦バレンシアGPでは4位に入った。翌2004年にはラウチ・ブラボー・チームに移籍。ウェットレースになった第2戦スペインGPでグランプリ初優勝を遂げたが、シリーズランキングは11位に終わった。2005年にはit
Raceチームから出場。シリーズ5位に入る活躍を見せ、クラス昇格への足がかりを作った。
2006年、250ccクラスへ転向、第4戦中国GPにて6位、シリーズランキングは10位で終わる。翌2007年もシリーズ10位に終わり、表彰台の獲得は出来ないままだった。
2008年、ホームグランプリの第6戦イタリアGPで初優勝を遂げ、次戦カタルニアGPも優勝して2勝目を獲得、その後も順調に勝利を重ねてチャンピオン争いをリードしていった。第15戦オーストラリアGPでシーズン5勝目を挙げ、残り2戦となった次戦第17戦マレーシアGPでは3位表彰台に立ち、シリーズチャンピオンに輝いた。また最終戦バレンシアGPでは6勝目を挙げ、飛躍のシーズンを締めくくった。
2009年も250ccクラスに残留し、タイトル防衛を目指した。しかしシーズン開幕前のモトクロスによるトレーニング中に右手舟状骨を骨折してしまい開幕戦カタールGPを欠場、続く第2戦日本GPもノーポイントに終わってしまった。しかしシーズン中盤以降は調子を取り戻して勝利を重ね、シリーズランキングを3位で終えた。
2010年よりホンダのサテライトチームであるグレシーニ・レーシングから、最高峰MotoGPクラスに参戦。シモンチェリはレースを重ねるにつれて徐々に速さを見せ、第17戦ポルトガルGPではアンドレア・ドヴィツィオーゾと表彰台争いを展開してシーズンベストの4位を記録、最終戦バレンシアGPではクラス初のフロントロウとなる3番グリッドを獲得した。この年のシリーズランキングでは、ルーキー勢としてはベン・スピーズに次ぐ2番手となる8位を記録した。
2011年もグレシーニに残留、チームメイトには新たに250ccクラス時代からのライバルである青山博一を迎えた。開幕戦のカタールでは5位でフィニッシュし、ウェットレースとなった第2戦のヘレスでは転倒してリタイアとなったものの、優勝が目前であった。第3戦のエストリルでは自己最高となる予選2位からスタートした。第4戦のルマンでは、5位で完走した。カタロニアでは自身初のポールポジションを獲得したが、スタートの失敗で7位まで落ち込み、レースは6位でフィニッシュした。MotoGPクラスでの初の表彰台はチェコでの3位であった。
10月23日、セパン・インターナショナル・サーキットで行われたマレーシアGPのレース中、2周目の11コーナーで転倒し、後続のマシンと接触したことによる頭部と首、胸部の深刻な外傷により死亡した。1ラップ目を終えて4位に付けていたシモンチェリは2ラップ目で転倒、後続のコーリン・エドワーズ、バレンティーノ・ロッシがシモンチェリと彼のマシンに衝突した。レースは直ちに赤旗が振られ中断された。衝突の衝撃でシモンチェリのヘルメットは外れた状態であった。