オーティス・レイ・レディング・ジュニア(Otis Ray Redding Jr. 1941年9月9日生)
[アメリカ・ソウル歌手]
ジョージア州ドーソン生まれ。1960年代初頭にジョニー・ジェンキンズのパイントッパーズで音楽活動を始め、ソロ・シンガーとして契約後1962年に「These Arms of Mine」を発表、この歌をきっかけに1964年スタックス傘下のヴォルトからアルバム『Pain in My
Heart』を発表、アメリカ国内でアトランティック・レコードのもとで全国流通を果たす。同年、ブッカー・T&ザ・MG'sのスティーヴ・クロッパーと共同制作した「Mr. Pitiful」は、R&Bシングル・チャートで最高位10位、Billboard Hot 100で41位となるヒットとなった。その後、「I Can't Turn You Loose」、「(I Can't Get
No)Satisfaction」といった曲がヒットして、古いラブ・ソングをリサイクルした「Try a Little Tenderness」は、1966年の代表曲となった。
そして、1967年のモントレー・ポップ・フェスティバルに出演して評価を得ることとなった。当初は白人のロック・ミュージシャンが多数出演するモントレー・ポップ・フェスティバルにオーティスが出ることについて、難色を示す者が多かった。オーティスが使用していたアンプは、ザ・フーやジミ・ヘンドリックスが使用していた大音量のものとは比較にならない程貧弱なものだったが、黒人のソウル・ミュージシャンとして同フェスティバルに出演したオーティスは大観衆の心を虜にし、音楽に人種の壁はないことを示し、大喝采を浴びた。このフェスティヴァル出演後、喉の異変を訴え、ポリープが見つかり医者から2ヶ月間歌う事を禁じられ、後の曲調の変化に大きな影響を与えた。
1967年12月10日、オーティスの自家用飛行機がウィスコンシン州のモノナ湖に墜落、オーティスは死亡した。この事故で一緒に搭乗していたバックバンド「バーケイズ」のメンバー4人、マネージャー、パイロットも死亡する悲劇に見舞われた(オーティス・レディング自家用飛行機墜落事故)。盟友のジェームズ・ブラウンは、自家用飛行機で移動する事の危惧を訴えていたという。