ティモシー・ジェームズ・マクベイ(Timothy James
McVeigh 1968年4月23日生)
[大量殺人犯]
連邦ビルは前半分の80%が崩れ落ち、167名が死亡、850名以上の負傷者が病院に収容された。168人目の犠牲者の女性は、ビル1階の職員用託児所に預けられていた際に事件に巻き込まれ、収容先の病院で死亡した。託児所はトラックから10mと離れていなかったため、女性以外の子供たちにも、多数の犠牲者が出た(ただし託児所内で瀕死の重傷を負いながらも生還した子供もいる)。逮捕後マクベイは捜査官に、ビルの1階に託児所があるとは知らず、もし知っていれば、別の場所を狙ったと供述している。
事件後、専門家がオクラホマ州連邦政府合同庁舎ビルの構造を調べたところ、1階の玄関前の部分が柱で支えられ、その上に2階以上の階が載る形になっていたことから元々衝撃に弱く、その柱が折られると、上の階が崩壊するような構造になっていたことが明らかになった。事件後マクベイは捜査官からの尋問に対し、その事を熟知した上で、正面玄関前に爆発物を搭載したトラックを停めたと供述した。
事件後すぐにFBIが動き、犯行に使われたトラックがジャンクションシティから借り出されたことを突き止め、レンタカー会社の社員に借主の似顔絵製作に協力を要請したところ社員は快諾。トラック貸し出し時に作成した依頼書にはクリング(Kling)の名前が記載されていた。マクベイの似顔絵はすぐさまテレビに公開され、ドリームランドホテルに泊まっていたリー・マクガウンという男に良く似ているという情報が提供された。クリング、リー・マクガウン共にマクベイが使った偽名であった。
ビル爆破後マクベイは、テレビに自分の似顔絵が流されていることなど露知らずにオクラホマ州ペリー近くのノーブル郡高速道路を車で走っていたが、オクラホマ州パウニーで高速道路警察隊の隊員に呼び止められた。隊員はマクベイの車には有効なナンバープレートが付けられていないことに気付いた。マクベイは有効なナンバープレートをつけずに公道を走ったこと、そして弾が装填された重火器を許可証なしに持ち歩いていたことで逮捕された。3日後、刑務所内でマクベイは国を挙げての犯人捜査の網に引っ掛かった。
動機についてマクベイは、これはブランチ・ダビディアン(ウェーコ事件、1993年4月19日)とRuby
Ridgeに対して政府がしたことに対する復讐だと述べた。ウェーコ事件が前述の個人の小火器所持を非合法化し、すべての武器を個人から取り上げる計画に着手した証拠と思い込み、ウェーコ事件の2周年記念の日に爆破を決行したという。
裁判でマクベイの弁護団は、連邦政府合同庁舎ビルの爆破は政府によるウェーコ事件に対する抗議のためだと主張し、ウェーコ事件において政府が国民に対して大きな嘘をついたと公言した。CNNの調査では国民の実に80%以上が死刑を希望した。1995年8月10日、マクベイは11の連邦法違反と8の第一級殺人罪により起訴され、同年10月20日連邦裁判所は死刑判決を下した。なお、共犯者には終身刑、さらにもう一人の男には計画を知っていながら通報しなかったとして懲役12年が確定している。
死刑執行はマクベイ自身とその弁護団による死刑執行の中止要請により遅れたが、最終的には2001年6月11日にインディアナ州テレホート連邦刑務所で薬物による刑が執行された。遺族の数が800名を超えたため全員を死刑執行に立ち会わせることが不可能であり、立ち合いをする遺族は抽選で選ばれた。その他の遺族には暗号化された信号によりテレビ中継されたが、ビデオでの処刑シーンの撮影を防ぐため厳重な手荷物検査が実施された。執行前、カトリックとして育っていたマクベイは、教戒師である神父からの赦しの秘跡のあと、病者の塗油と最後の聖体拝領を受けて、刑に臨んだ。
2001年6月11日死去(享年33)