モーリス・ストークス(Maurice Stokes 1933年6月7日生)
[アメリカ・バスケットボール選手]
その後、何事も無かったかのようにデトロイト行きの夜行列車に乗り、彼にとっては初となるプレーオフに臨んだ。デトロイト・ピストンズとの第1戦、ティップオフの30分前、ストークスは突如吐き気を催した。ストークスはついに堪えきれなくなり嘔吐してしまうが、周囲もストークスもただの風邪と思い込み、それがストークスにとって危険な兆しであることに気づかなかった。深刻な事態と受け止めなかったストークスは試合に強行出場するものの、この日は12得点15リバウンドと彼にとってはやや物足りないものであり、試合もロイヤルズの敗北に終わった。
試合後チームは第2戦が行われるシンシナティに戻るため、ウィローラン空港から飛行機に乗った。離陸してから45分後、ストークスを再び吐き気が襲った。それは以前よりも激しいもので大量の汗を伴うものであり、ストークスに死を予感させるほどのものだった。「私は死ぬかもしれない」と漏らすストークスに彼のチームメイトも激しく狼狽した。ついに呼吸不全に陥ったストークスに客室乗務員は酸素ボンベによる呼吸を試みたが、症状は回復を見せず、ストークスは死を覚悟した。ストークスは死ぬ時はクリスチャンになって死にたいと常々思っていたため、この時彼はチームメイトのリッチー・リーガンに頼んで略式の洗礼を受けている。シンシナティまでは90分以上掛かるため、デトロイトに引き返した方が早く治療を受けられたが、プレーオフのスケジュールを遵守するチームオーナーとモーリス・ポドロフリーグコミッショナーの意向で機はそのままシンシナティへと向かった。シンシナティに到着し、救急車に運ばれた時点で、ストークスは意識を失った。ストークスはそのまま入院し、彼を欠いたロイヤルズはピストンズに2連敗を喫して、その年のプレーオフを終えた。
ストークスは昏睡状態から回復せず、復帰するどころか、24時間の介護を受けなければ1週間も生きてはいられない状態となった。この年ロイヤルズは売却され、新オーナーはすでに選手としての先がないストークスとの契約を解消し、ストークスは自らその意思を示さぬまま事実上の引退に追い込まれた。当時NBAの選手会は殆ど実行力を持たず、選手を守るための法整備も殆ど進んでおらず、年金も医療保険もなかったため、ストークスは裸同然のままリーグから放り出されたことになった。ストークスの介護には年間1万ドルも掛かり、彼とその家族にはその莫大な医療費を払えるあてなど、どこもにもなかった。
華やかなバスケット生活から一転、絶望的な状況に追いやられたストークスに手を差し伸べたのが、少年時代からの友人であるジャック・トゥィマンだった。病室の外で、未だ昏睡から目覚めない息子とこれからの生活を想って涙する母親を見て、トゥイマンはストークスの保護者となることを決意。彼は合法的にストークスの保護者になれるよう、知人の判事に依頼し、それまでのストークスの医療費もトゥィマンが支払った。トゥイマンがストークスとその家族に援助の手を差し伸べている間に、ようやくストークスが昏睡から目覚めたが、半身不随となっており、その後の検査で外傷後脳症であることが判明した。暫くは言葉を発することもできなかったが、トゥィマンとは瞬きによってコミュニケーションがとれていたという。その後ストークスは通常の生活を取り戻すために、熱心にリハビリに取り組み、周囲も驚くほどの回復を見せるようになった。
一方その後のロイヤルズはストークスに対する仕打ち(飛行機をデトロイトに引き返させなかったことや、契約を解消したこと)に対し不信感を抱き、多くの中心選手がチームを去ってしまい、残ったのはトゥィマンだけとなった。そのトゥィマンはチームのエースとして孤軍奮闘を続け、チーム1の年2万ドルの高級取りとなっていたが、それでもストークスの医療費を払うには足りなかったため、トゥィマンは昼夜を問わずに働き続けた。コートの中ではダブルヘッダーとなるエキシビジョンゲームを開催してその出演料を得るなどし、コートの外ではビジネスを展開し、ソースメーカーの仲買人として利益を上げた。トゥィマンはストークスのために様々な活動をしながらも、本業のNBA選手としてもチームのエースという大任を果たし、またキャリア11シーズンのうち欠場があったのは2シーズンのみと、この時期のトゥィマンがこなした仕事量は常軌を逸していた。それでも1958年にはお金が尽きたため、トゥィマンはニューヨークでエキシビジョンゲームを開催し、1万ドルの寄付金を集めることに成功し、その後も1年毎に開催され、ビル・ラッセルやウィルト・チェンバレン、ジェリー・ウェスト、カリーム・アブドゥル=ジャバー、ジュリアス・アービングなどの大物選手も参加している。「モーリス・ストークス・ゲーム」と銘打たれたこの大会は現在まで続けられており、貧困に苦しむ元NBA選手のためのチャリティーゲームとなっている。
ストークスは晩年をサマリア人病院で過ごしたが、彼の部屋にはトゥィマンを始め少年時代に彼に憧れたというチェット・ウォーカーなど、様々なNBA選手が訪れた。またストークスの母校である聖フランシス大学の学長が彼のもとを訪れ、ストークスの名を冠したストークス・アスレチック・センターを建設すると告げられた時、ストークスは感激のあまり涙を流したという。1970年4月6日、ストークスは心臓発作で死去した。彼の遺体は聖フランシス大学のキャンパス内にある墓地に埋葬された。2004年には殿堂入りを果たし、背番号『14』はサクラメント・キングスの永久欠番となっている。
ストークスは現役当時から非常に高い評価を受けてきた選手だが、そのあまりにも短い選手生活に、彼の引退を惜しむ声が多くあがっており、またもし彼が順調にキャリアを積み重ねていれば、史上屈指の名選手になっていたであろうという意見も多い。マジック・ジョンソンを引き合いに出されるように、ストークスはポイントガードのようにボールを扱い、センターのようにゴール下を支配する、非常にオールラウンドな才能を有した選手だった。毎シーズンあらゆるカテゴリーで高い数字をたたき出し、平均リバウンド数とアシスト数は3シーズン全てでリーグトップ5入りを果たす選手など、先例がなかった。また105.2kgと当時としてはかなり大きいサイズを誇りながらも、優れた脚力とパスセンスを駆使して、チームの速攻を導き出すことも珍しくなかった。
白人のトゥィマンと黒人のストークスの関係は人種の壁を越えた美談として広く人々に伝えられ、時には各地から寄付金が寄せられることもあった(同時に差別主義者からは嫌がらせの手紙を受けることもあった)。ストークスの死後の1973年には2人の友情を描いた映画『ビッグ・モー(MAURIE)』が公開された。
1970年4月6日死去(享年36)