荒木虎美(あらきとらみ 1927年3月9日生)
[妻子殺害の被告人]
海中から引き上げた乗用車の調査や裁判での証人から以下のことが明らかになった。
・車の鑑定で妻の膝に付いた傷と助手席ダッシュボードの傷跡が一致
・車に付いている水抜き孔のゴム栓が全て取り外されていたこと
・運転席前のルームミラーが固定式のものから脱落式のものに取り替えて、外れやすくなっていた。
・車のダッシュボードに窓ガラスを割るために用意したとされる金ヅチが入っていた。
・事件当夜に事件現場の手前の信号機で停まっていた日産サニーの運転席に荒木が座っていたとする鮮魚商の男性の証言
・「家族に保険金をかけて車ごと海に飛び込み自分だけ助かる手法で保険金を手に入れること」を荒木から打ち明けられていた刑務所仲間の証言
しかし、これらは重要な証拠ではあるが、決定的直接証拠とまでは言えなかった。
一審で、荒木は涙を見せた。保険金がかけられながらも死を免れた長男が証言台に立った時のことである。しかし、長男はその際に「あの男を死刑にして欲しい」「お前がやったんだ!」と発言した。
1980年3月28日、大分地裁は「故意に車を海に転落させ、善良な母子3人を殺害した。計画的かつ冷酷残忍な犯行である。」として荒木に死刑判決を言い渡した。控訴をするも、1984年9月、福岡高裁は控訴を棄却し、死刑判決を維持。1987年、荒木は癌に倒れ、八王子医療刑務所に移送された。
上告中の1989年1月13日に荒木は癌性腹膜炎で死亡した(自殺説あり)。荒木の死を受けて、最高裁は「被告人死亡につき公訴棄却」とし、真相は永遠に闇の中へと消えた。
当初からこの事件の裁判は「死刑か無罪か」と言われた。もし無罪であれば保険金で億万長者、有罪であれば死。まさに天国と地獄となる。状況証拠しかなかったにもかかわらず、荒木に一審・二審と死刑の有罪が出たのは、不可解な保険金という金銭的動機が容易に予想されたことだけでなく、短気な性格だった荒木が裁判中に不利な証言をした証人を罵倒するなどして、裁判官の心証を限りなく悪くしたためと言われている。
ちなみに、事件から2年後の1976年10月10日、公判中だった荒木の証言に疑問を持った福岡市に住む35歳の男性が、友人にカメラで記録してもらいながら、事件現場の岩壁から時速40kmで海に飛び込む実験を行っている。脱出に成功した男性は「計画的な場合はほぼ助かることが実証できた。裁判の証人になってもいい」と語った。この実験は捜査資料として正式に採用されている。
1989年1月13日死去(享年61)